まさか溺れる

息子がプールに行きたいと熱心に言うので、夏休みも終わりに近付いたある日何年ぶりかにプールに行きました。

子どもの頃によく行っていた、流れるプールのある室内施設で子どもが多いのですが、一定時間になると「ビッグウェーブ」タイムがあり、まるで海のようなプールで波を体験できます。

小さな子どもを連れた親子に交じって、波に向かってみました。いっそ波を発生させている源までいくとそれほどの抵抗は感じずに楽です。少し離れたほうがスリルが味わえます。なにしろ子どもが遊ぶくらいのプールですから水位もそれほど深くはありません。

ところが、一度波に身体をさらわれてバランスを崩した途端、先ほどまで遊んでいた緩い波は突然凶暴な力を持った水の塊と化し、次々に襲い掛かってきます。逆らうこともできず身体を起こすこともできません。慌てて体勢を立て直そうと腕をついたのですが、肘と背中をすりむいてしまい、痛みと恐怖でパニックになりかけました。まさかこんな子どもだらけの浅いところで!?と本当に慌てました。怖かったです…。

毎年水難事故は多発します。そのほとんどが、浅い穏やかそうな川で起こるものです。大人でも30cmの深さがあれば溺れると言います。なぜ?と思います。

しかし、立って遊んでいて、尻もちをついたり転ぶと急激に大きな力がかかって流されるそうです。まさにそれを、体感しました。本当です。自分の意識や意志なんて、翻弄されて何の役にも立ちません。

「自分だけは大丈夫」と、人は自分を根拠なく過信します。そして、トラブルに陥った人を心のどこかで蔑んだり、自分は違うと思ったりするのではないでしょうか。各種詐欺や宗教など、危険な闇はいつも背中合わせです。

人の心は隙や認知の落とし穴だらけで脆いものです。

わたしも、数々の認知の歪みから、溺れるような時間の中で長い間苦しんできました。海から抜け出した今、振り返ってみるとなんて情けない愚かな自分だったのか、と悔やまれます。

喉元過ぎればで、そんな愚かな自分は一瞬の気の迷い、無かったものにしてしまいたい、とも思います。でも溺れているその時は気の迷いなんかではない、本当に足元をすくわれて死にかけているのです。とても客観視なんてできません。

自分がプールで文字通り現実に溺れかけたことで、ハッと思いを新たにしました。やはり溺れている人にはロープや岸が必要だ、と。

「川に安全な場所はない」と言われていますが、人生にだっていつでも絶対はないのだと思います。

わたしの私淑する脚本家さんのドラマのセリフに「人生には「坂」が三つある。「上り坂」「下り坂」そして「まさか」」というのですが、全くその通りと思います。

自分は違うんだ、などと思わずに、いつだって当事者になることを謙虚に警戒しましょう。